命どぅ宝、生きぬけ!
私、生きましたよ
鉄の暴風と言われた激しい空襲、艦砲射撃、上陸戦の絶望に追い込まれた沖縄戦。
その中で「生きろ!」と後世に一筋の命を託した2人の官僚と沖縄の人々の物語を映画化。
沖縄戦末期、本土より派遣された2人の内務官僚がいた。
1人は学生野球の名プレーヤーとしてならし、戦中最後の沖縄県知事として沖縄に赴任した島田叡(あきら)。島田は、度重なる軍の要請を受け内務官僚としての職務を全うしようとする。
しかし、戦禍が激しくなるにつれ、島田は県政のトップとして軍の論理を優先し、住民保護とは相反する戦意高揚へと向かわせていることに苦悩する。そして、多くの住民の犠牲を目の当たりにした島田は「県民の命を守ることこそが自らの使命である」と決意する。
もう1人は、警察部長の荒井退造。
島田と行動を共にし、職務を超え県民の命を守ろうと努力する。実は、沖縄戦で2人はそれぞれ重い十字架を背負っていた。荒井は、子供など県民の疎開を必死に推し進めていた。その矢先、本土に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米軍の攻撃に遭い、数多くの子供たちが犠牲となった。
また、島田は知事として、軍の命令で鉄血勤皇隊やひめゆり部隊などに多くの青少年を戦場へと向かわせていた。2人はそれぞれ十字架を背負いながらも、戦禍が激しくなるのに伴い、必死に県民の疎開に尽力し多くの沖縄県民を救っていった。一億総玉砕が叫ばれる中、島田は叫んだ。
「命どぅ宝、生きぬけ!」と。
©︎2022 映画「島守の塔」製作委員会
沖縄県糸満市の摩文仁の丘 平和祈念公園内にある、沖縄戦で殉職した島田叡知事(兵庫県出身)と荒井退造警察部長(栃木県出身)をはじめ、県民の安全確保に挺身した戦没県職員469柱を祀る慰霊塔。1951年(昭和26年)に旧県庁の生存者三百数十人や県民を中心とした浄財の寄付により建立された。摩文仁の丘には、陸軍の司令部壕の他にいくつかの壕があり、そのうち軍医部壕から島田叡知事と荒井退造警察部長は2人で外に出てゆき、消息を断った。そのため軍医部壕が2人の終焉の地とされており、「島守の塔」はその壕の前に建立されている。さらにその後ろに、島田知事と荒井警察部長の終焉の地を示す石碑が配置されている。